Vol.215
2005年6月17日
■戦友、逝く。


ユーゾーが天に召された……。15日の午前7時35分のことだったそうです。'70年代からサーキットに通ったことがあるか、レース関係のバイク雑誌を読んでいた方なら「エッ、ユーゾーさんが」と驚かれたのではないでしょうか。それより後の世代でも「ユーゾー・チャンバー」で2ストのスポーツバイクを楽しまれたかも知れませんネ。正しくは 柳澤雄造 です。

ボクにとっては世界GP遠征時代のメカニックというか、エンジニアリングの開発者でもあり、共にワンボックスやキャンピングカーの中で暮らしながらレースを転戦した良き戦友でした。

そもそも彼と出会ったのは、17歳だったから40年前。中野の河田モータースというカワサキ系のお店でした。彼はそこのレーシングチームに所属し、いつの間にかお店にメカニックとして勤めてたっけ。ボクはといえば、レースをはじめたは良いけれど、西も東もわからなくて東京では新進気鋭のチームとして当時のMCFAJ事務局の西山さんに紹介してもらい、その「城西スポーツC」に新顔として参加させてもらったばかり。

とにかくユーゾー君は天才ライダーでした。いきなり富士スピードウェイを走って、コースがどっちに曲がっているかもわからないまま(ヘアピンにやってきたとき、そのまま曲がれるかと思って減速しなかったらコケるかと思った、なんてほざいてました)メーカーチューンの当時デビュー直後だったヤマハAT90を駆って優勝してました。
モトクロスも猛烈に速かったけれど、身体が小さくて足が届かないのでコケたらリタイヤという特攻隊のようなレースだったナ。
それがいつからか、全日本を走るライダーのメカをするようになり、バイクのお店(当初はトラックに工具を積んで出張修理専門だった)も始めて、夜になるとバイク好きが集まって彼の持論に聞き入ってました。
そんな彼に、世界GPに行くからつきあってくれ、と頼んで断られ口説き落としに家まで通った日々が懐かしい……。

彼と話していると、何でもできるような気になって、夢は実現するものと焚きつけまくってました。見知らぬ世界GPなのに、堅く階段を登っていくなんて微塵も考えず、毎レース何かしらアイデアを込めたチャレンジを続けてました。

でも頑固なんだよネ、キミは。ユーゾー的ピュア発想の具現化を求め、誰にも止められないジェット気流に乗って羽ばたいて行っちまった。最近ほとんど会わなかったら、突然ユーゾー君倒れるの知らせを聞いて病院へ駆けつけたのがもう1年以上も前。遂に意識が戻らないまま、一昨日仲間からの訃報。お疲れさまでした、いまはそれしか思いつかない。ご冥福をお祈りします。